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離婚準備 祐市の場合とおまけで史緒里

last update Date de publication: 2026-06-26 23:00:43

笠間に離婚協議書を作らせた祐一は、足取りも軽く帰宅の途についた。

玄関を開けると、出迎えてくれたのは妻ではなく、エプロン姿の史緒里だった。

「お帰りなさい、あなた、なんちゃって、きゃっ」

「ああ」

祐一はコートを脱ぎ、それを史緒里に手渡そうとした。

しかし手を差し出すタイミングが合わず、コートは床に落ちてバサリと音を立てる。

祐一はみやびの出迎えを懐かしく思った。

彼女ならばコートを取り落とすなんてミスは絶対にしない。

まるで祐市の帰宅がわかっていたかのように静かに玄関先にいて、コートを脱ぐよりも早く手を差し出してくれる。

自分でコート掛けにかけるよりも手早く快適に。

しかし史緒里にはそうした気遣いがない。

落ちたコートを拾ってさえくれない。

祐市は仕方なく、自分でコートを拾い上げた。

「そういえば、みやびは?」

史緒里はあざとく小首を傾げて答えた。

「お仕事だって出掛けて行ったけれど、でも、本当にお仕事だったのかしら?」

「どういう意味だ?」

「会社から呼び出しの電話を受けていたけど、相手は若い男の人だったみたい」

「若い男だと?」

ここで引っかからないのがさすがはクズだが常識のある男。

「まあ、会社なんだから若い男の社員ぐらいいるだろう」

「そうじゃない、そうじゃないのよ! なんていうの、すっごい親しげで〜」

「まあ、一緒に働いていればそうだろうな」

「そういうんじゃないんだって、距離感が近いっていうか、甘ったれてるっていうかぁ」

「何を言いたいんだ、君は」

ちょうどその時、玄関のドアが開いてみやびが帰ってきた。

「ただいま帰りました……って、何をしてるんですか、玄関先で」

史緒里がここぞとばかりにみやびを問い詰める。

「こんな時間までどこに行っていたの!」

「仕事ですが」

「嘘でしょ、私聞いたもの、電話の相手、若い男だったじゃない」

「ええ、後輩ですからね、私より二つ下です」

「祐市、聞いた? 不貞よ不貞! まだあなたと離婚していないのに、もう男がいるのよ!」

祐市は戸惑い顔だ。

「えーと、今の会話のどこが不貞だと?」

みやびの方は、すでに興奮し始めている。

「キタキタ、キタァ! こういうの、恋愛小説で見たことあるっ!」

「また何を言い出したんだ、お前は」

「祐市さん、ダメですよ、ダメ! ここは『まだ離婚もしていないのに男がいるとはな、君がそんなにふしだらな女だとは思わなかったよ』って言うところですよ!」

「落ち着け」

「あ、はい」

祐市はエプロン姿の史緒里に目を向けた。

「とりあえず飯にしよう」

史緒里は何一つ悪びれるところなくみやびに命令する。

「聞いたでしょ、さっさと食事の支度をして」

祐市が片手をあげてこれを止める。

「ちょっと待て、君は食事を作ってくれたんじゃないのか?」

「えー、私、まだ病後だから台所みたいな寒いところにいれなくてぇ」

「じゃあ、そのエプロンは?」

「これ? 新婚さんごっこっていうか、コスプレっていうかぁ」

「はー、もういい、みやびも仕事から帰ってきたばかりだし、今から食事を作らせたら何時になるかわからない、食いに行こう」

「わ、外食! やったあ!」

みやびはスンとした顔でこれを断った。

「私は結構です、どうぞお二人で」

「君だって食事はまだだろう」

「いえ、妄想をおかずに……じゃなかった、一人でしたら、あまり物でなんとかなりますのでお構いなく」

「でも……」

すでにエプロンを外した史緒里が祐市の腕を強く引く。

「ねー、いいじゃない、残飯を処理してくれるって言ってるんだし、私たちは美味しいもの食べよ?」

嫌味を含んだこの物言いが、みやびのハートをズギュンと撃ち抜いた。

「いいっ、本妻を見下している感が、すごくいい!」

「デートよデート、ねえ、学生時代によく行ったあの店、覚えてる?」

「はぅあ、本妻一人蚊帳の外にしようとする話題のチョイス! いいっ!」

これ以上は色々と我慢の限界だ。

みやびは二人をドアの外へと押し出した。

「どうぞ、この先はお二人で、ハウアッ!」

バタンとドアを閉めた後で、みやびは渦巻く興奮を抑えきれずに崩れ落ちる。

「まだ離婚前なのに、もう自分の男気取りでガンガン牽制するとか、最高に恋愛小説っぽい!」

この後、高級料亭に行った史緒里がSNSにあげた写真をチェックするまでが様式美。

わざと祐市の手が映り込むようにした匂わせ写真に『美味しいものは好きな人と食べるともっと美味しい』なんてキャプションがついているのを見て、みやびが「王道すぎる〜」と身悶えていたことを、祐市たちは知らない。

一方。祐市の方は、玄関の外に押し出された瞬間感から沸き続けているイライラを持て余している最中だった。

あまりに腹がたちすぎて、高級料亭の繊細な料理も味がしない。

「あいつ、あんな女だったか?」

祐市の知るみやびは、淡々としたクールな女だ。

どれほど罵声を浴びせられても、酒宴でおもちゃにされて酒を頭からかけられても顔色ひとつかえず、むしろどこか超越した雰囲気のある女だったはずだ。

公の場においては出しゃばらず、家庭においては細やかに気を配り、祐市は彼女を女としては愛していなかったが、妻としては好ましく感じていた。

それがここ数日、突然奇声を発したり、何やらよくわからない言葉を超早口で滔々と垂れ流したり、明らかに様子がおかしい。

「なるほど駆け引きというやつか、日立みやび、よくやるな!」

ここにみやびがいたら「うっわー、その日本語的に怪しい言い回しがすっごく恋愛小説っぽい!」と言い出しかねない台詞を吐いて、祐市は手元の酒をグビリと飲み干した。

「それで、君は何をしているんだ?」

祐市はようやく、一緒に個室に入った史緒里が料理の写真を撮りまくっていることに気づいた。

「ゆーいちー、ちょっとここに手を出してみて、そう、親指と人差し指で半分ハートを作ってー」

「いいけど、こんな写真をどうするつもりだ?」

「じゃんっ、SNSにアップするのー、だってこんな高級なお店、絶対映えじゃない?」

クズだけど常識がある祐市は、離婚成立前なのに親密な写真が世間に出回るのはまずいのではないかと考えた。

だが同時に、その写真を見た日立みやびが嫉妬するかも知れないと思うと、ちょっと嬉しい気がして史緒里の行動を止めようとは思えなかった。

「まあ、ほどほどにな」

「はーい」

ようやく少しだけ気分が上向いてきた祐市は、目の前に並ぶご馳走を見て、みやびのことを思い出した。

思えば、こんな店にみやびを連れてきたことは一度もない。

それどころか、彼女を外食に連れて行ったことなど一度もない。

今日の食事に選んだこの料亭は、大学生時代によく史緒里を連れて通った店だ。

当時から日立家の次期後継者として十分な財力を持っていた祐市は、この料亭だけではなく、メニューに値段の書いてないフレンチの名店や、むしろメニューすらなくお値段も天井知らずな高級リストランテなど、ともかく一般庶民では敷居も跨げないような高級店で史緒里とデートを楽しんでいた、

ところがみやびのことは、す○家の牛丼にすら連れて行ったことがない。

むしろみやびは料理上手で、お茶漬けのような簡素なものから手の込んだ万漢全席に至るまで、ありとあらゆる料理をプロよりも美味しく、確実に祐市の好みに合わせて作ることができた。

だから余計に食事に関しては彼女に甘えて、外食など一度も考えなかったのである。

「あー、でもそうじゃない、そうじゃないんだよなあ」

例えば場末の小汚いリストランテでもいい、特別な日を作ってオシャレさせたみやびを連れ出せば、どれほど喜んでくれただろうか……

「あれ? もしかして俺、すっごいクズなんじゃ?」

グラス片手にズーンと落ち込み始めた祐市を見て、史緒里は少し慌ててこれを慰めた。

「クズじゃないよ、そうやってクズだったかもって反省してるんだから、全然クズじゃないよ!」

「ふっ、そうか?」

「そうだよ、えっと、みやびさんにとってはクズだったかも知れないけど、私にとっては少しもクズじゃない、むしろ最高の旦那様だよ!」

「ふっ、そう言ってもらえると、俺も少し救われるよ、君は本当に、最高の女だな」

祐市、クズだが常識はある。

だがちょろい。

「最初っから君と結婚すればよかったよ、そうすればみやびを不幸にすることもなかったのに」

「今からでも遅くないわ、私と結婚して幸せにしてちょうだい」

「そうだな、そのためには、まずみやび離婚しなくっちゃな」

祐市はポケットに突っ込んであった離婚協議書を取り出して、史緒里に差し出した。

「離婚を交渉するために、彼女に対する補償をまとめてみたんだ、女性の目で見て不備がないか、意見を聞きたい」

その内容に目を通した史緒里は、いつもの演技も媚びも吹っ飛んで、おっさんみたいな低い声で唸った。

「あ゛? 株の30パーセント? さらに補填として三十億?」

「少ないか?」

「逆よ、多すぎる! 慰謝料なんて百円で十分よ!」

「………」

「………」

「あっはっは、面白い冗談だ!」

「冗談じゃないってばー、本当は一円もあげなくっていいと思うよー、だって、祐市みたいな素敵な旦那さんを二年も独占してたんだもの、その幸せだけでも十分にお釣りがくるでしょー」

不意に、祐市の胸の奥にもやっとした得体の知れない感情が湧き上がった。

彼には妻を粗雑に扱っていたという自覚がある。

幸せな結婚生活というものを意図的に避けていたのだから、妻が自分を”素敵な旦那さん”なんて思うわけがない。

「あいつはそう思ってないだろうがな」

「え?」

「なんでもない、つまりさ、どうせあの女は金目当てなんだから金で解決するのが一番早い、そういうことさ」

「それでもこれは、あげすぎだよぉ」

史緒里は強欲な女だ。

みやびを追い出して祐市の妻になれば、その財産は当然自分のものになる。

そこから何十億という資産をみやびに渡すことが、どうしても許せなかった。

だから彼女は、この話をすぐに美鶴に伝えた。

「三十億ですって!」

日立家の奥座敷でこの話を聞いた美鶴は、怒りのあまり持っていた扇子をへし折った。

「あんな庶民の小娘、二百円だってあげすぎだというのに!」

史緒里より美鶴の方が百円分優しい。

まあ、できれば一銭も渡さず追い出したいと思っているのは史緒里に同じくだが。

史緒里はここぞとばかりに濃厚な嘘を練り込んでゆく。

「きっとこれがあの女の手口なんです、祐市さんは離婚する気満々なのに、お金の話なんか持ち出して、離婚を引き延ばそうとしているに違いないわ!」

さすがは史緒里、いやらしい言い方を心得ている。

そして、そんな史緒里の悪意に踊らされてしまうのが美鶴という女。

「なんて意地汚い!」

「そんな意地汚くて人品卑しい女に、祐市さんの大事な財産を渡すなんて、もったいなくありません?」

「もったいない、もったいないわ」

「それでですね、お金は一銭も渡さないでぇ、私がお嫁さんになれる方法が一つだけあるんですけどぉ」

「なになに、どんな方法?」

史緒里は美鶴の耳元に口を寄せて、静かに囁いた。

「私の知り合いに、お金さえ払えば証拠も死体も残さずに人を消してくれるって人がいるんですけどぉ」

「史緒里ちゃん、それって……」

「あの女に三十億もくれてやるの考えたら、一億や二億払っても惜しくはないじゃないですかぁ?」

「……」

「……」

美鶴は大きく跳びのき、耳元を拭うような仕草を見せた。

「あは、あははは、史緒里ちゃん、面白い冗談を言うのね〜」

「冗談じゃありませんよ〜」

「そ、そうだ、離婚するように私が言ってやるってあれ、まだ有効よね、それをしましょう、家族の食事会を開くわ、その席で私がちゃんと叱ってあげるから、ね、穏便に済ませましょう!」

「おばさまぁ」

「そうだ、こういうのはどう? 史緒里ちゃんのご両親もお呼びして、みやびを追い出すのを手伝ってもらうっていうのは?」

「えー、霞ヶ浦の家族を……ですかぁ?」

霞ヶ浦家での史緒里の立場は微妙だ。

それは”影武者”としてきちんと線引きされているからなのだが、史緒里はこれを”いつまで経ってもよそよそしい家族だ”と勘違いしていた。

だが顔を合わせても、家族としてキャイキャイキャピキャピした絡みはひとつもない。

例えば家族総出でパーティーに行くと、会場では”娘”として挨拶回りに連れ回され、にこやかな顔で両脇から腕を絡めてくる姉たちの”大事な妹”として扱われる。

霞ヶ浦家の人物たちは、そうした場で仲良し家族を演じるのがとても上手なのだ。

しかしパーティーが済んで駐車場に降りると、霞ヶ浦の父がスッと片手をあげる。

「解散」

それを合図に家族全員がにこやかだった表情をスッと消し、それぞれが背中を向けて各々自分の車で帰ってゆく。

家族全員がそんな態度なのだから、史緒里はこれを上流階級にありがちな”仮面家族”なのだな、と気楽に考えていた。

なにしろ生活面では贅沢三昧を許されている。

霞ヶ浦史緒里名義のクレジットカードは上限なしで、その使い道を咎められることもない。

住居としては都心一等地の高級マンションが与えられ、身の回りの世話をする使用人もつけられている。

だから彼女は、霞ヶ浦家のご令嬢として堂々と振る舞うことができるのだ。

だけど、あの冷静沈着な家族が自分の味方をしてくれるとは思えない。

というか、美鶴のように手のひらでコロコロさせる自信がない。

「えーっと、呼んでも来てくれないかもー、みんな忙しいしー」

一方の美鶴は、先ほど聞かされた恐ろしい言葉を振り払おうと必死である。

「いえ、忙しくても来てもらいましょう、ね、そうだ、食事会じゃなくてパーティなら来てくれるかしら、いいわね、パーティーを開きましょう!」

「でもぉ」

「いいから、決定よ! パーティーを開きます! 霞ヶ浦家の方たちも招いて! はい決定!」

真理恵はこの会話を傍受していた。

「へえ、面白いじゃん」

通信機器とモニターをぎっしり搭載した狭いバンのなかで、ぼりぼりと菓子を食べながらうっそりと笑う。

「ちょうどいいわ、反祐市派の残党を誘き寄せるための、罠に使わせてもらおうじゃん」

真理恵は早速、作戦を立て始めたのだった。

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